院長プロフィール

氏名 内田博之(うちだひろし) 昭和40年10月16日生まれ

父親が日立製作所でコンピュータの開発をしていたので小学三年までは横浜近辺で育つ。小3からは両親の地元福山に越し高校まで過ごす。その後、福岡県北九州市の九州共立大学経済学部に進学し卒業後、東京の長生学園専門学校に進学し平成3年3月卒業と同時に手技療法の国家資格取得。都内で修行を重ねたのち海外の手技療法に興味をもち渡米、渡欧を繰り返す。

肩書き

  • 長生医学会会員
  • ニューヨークカイロプラクティック研究会会長
  • 介護支援専門員(ケアマネージャー)
  • 医療国家資格所持
  • ウチダ整体堂院長
  • ㈲エフェクト(介護事業)代表

メッセージ

皆様こんにちは院長の内田です。ご多忙のなか当院WEBサイトに目をお止めいただいたこと非常に光栄です。普段患者さんからよく聞かれる治療以外の質問で一番多いのは先生はなぜこのお仕事にすすまれたのですか?というものです。

 いつも手短に高校の頃、整体に通院していたからです。このように答えるだけでした。この質問が多いのは私のように40代前半の治療師は非常にすくないのです。私が大学の経済学部を卒業時は実感を伴う好景気でした。みんな苦労することなく就職できた時代でした。大学の友人も僕が進学することを不思議な顔でみる者も多かったです。

 私の父親は昭和12年生まれ、近畿大学理工学部を卒業後、昭和35年当時人気企業No,1の日立製作所に入社しました。研究所の周りの同僚は東大卒がゴロゴロしていてすごい職場だったようです。私の父親は週休2日制で、土日はのんびりしていたのをよく覚えています。

 私が小2の終わりころ父は会社をやめ、両親の実家のある福山に移りました。父は母の実家の経営する会社に入りました。当時従業員は35人程で、日曜日も午前中は工場の仕事をする日々が続きました。父にストレスもあったのでしょう。その頃から私は父から少しの事で殴られるようになりました。2週間に一回くらいは殴られていたと思います。もちろん今の虐待のように食事を与えてもらえないということはありませんでしたし、父はよく本を読んでくれたので、文書力はすごくつきました。

 飴とムチを使いわけてきたようですが、ムチのほうが強すぎたようで、次第に私は体に異変を感じるようになりました。「勉強しなくちゃ」という情熱はすごくあるのに、先生の書く黒板の字がノートに早く写せないのです。妙に指先に力が入りすぎてしまって、父親から殴られるのを防御するため、いつも手でパンチをよけていたため、私の腕力は強くなっていたのです。それと恐怖心のため、血管が収縮していたのでしょう。絵などを描くときも、筆圧が強くなってしまい、うまく描けないのを一人で悩んでいました。クラスの友人が絵で賞状をもらって、その絵は明るくのびのびしていたのを今も覚えています。

 あと友人には明るく冗談を言って振舞うのですが、いざ人前で発表したりするときは緊張してうまくしゃべれませんでした。運動会の時や剣道の試合の時、緊張で体がうまく動きませんでした。

 一番つらかったのは、僕は子供のころ先生から高い声が出て、歌がうまいと褒められていたので中1のころギターに挑戦しました。やはり指先に必要以上に力が入り、うまくできず挫折してしまいました。とにかく、子供の頃は大変でしたが、周りの人に助けられ過ごしていました。

 この指先の力は字を書いたり事務的なことをするには不便ですが、脊椎を矯正するときには重宝します。私の職業は努力と根性そして勇気で突き進んで行くたぐいでありますので、子供たちにはさせたいとは思っておりません。娘が生まれた時から私はマッサージや整体をしてあげて、リラックスの中から自分の表現力や才能を開花させてもらいたいと願っておりました。そのかいがあり、幼稚園のころ娘が絵の賞状を同時に3枚もらってきたときはとてもうれしかったです。賞状には元総理大臣の名前が書いてありました。

 その時決心しました。娘だけでなく他のどんなひとにもやさしく治療してあげその人の表現力や才能を100%ひきだしてあげたいと!。才能とは自然治癒力もそのうちの一つであると、私は考えております。人には平等に治る力があるのです。私はこの世界に入門直後より友人(東京在住)の阿万先生の手技治療を受けて、指先が滑らかに動くようになりました。治癒力が出てくると好循環が始まり、体に害なものは阻害しようとする働きのお陰で、平成二年に完全禁煙にも成功しました。また名古屋在住の井上博幸先生からは言葉によるアドバイスをうけて精神的にタフになりました。本当に手技療法のおかげで、現在はとても幸せです。父親と母親にも今では感謝していますのでいつまでも長生きしてほしいです。

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